千利休は日本の茶道の源流を作った安土桃山時代の茶人ですよね。
千利休の設計した「妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)」という有名な茶室があります。
妙喜庵待庵は草庵茶室というカテゴリーになります。
草案とは、茅葺きや藁葺などの屋根で外観の豪華さやいかつさを無くし、あえて軽快でつつましい感じを表した建物のことです。
小さい建物ですが、単純な構造とせず、工夫された形をしています。
屋根の形も寄棟や切妻屋根に庇となる下屋根を組み合わせた凝った感じのものが多いです。
妙喜庵待庵も、切妻屋根と庇(下屋根)を組み合わせた形になっています。
形は凝っていても装飾は排除し、非常に簡素な印象です。
内部の茶室部分の広さは2帖しかなかったんですよ。
今回はそんな妙喜庵待庵の間取りや画像、わびさびの意味等について紹介します。
千利休プロフィール
本名 | 幼名=田中与四郎(たなか よしろう) 法名(戒名)=宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい) |
生年/没年月日 | 1522年/1591年4月21日 |
出身地 | 和泉国堺 |
身長 | 180cm |
作品 | 妙喜庵待庵、黄金の茶室 等 |
千利休の本名は田中与四郎(たなか よしろう)というけっこう現代的な名前なんですね(^^)
千利休はもともと町人でした。
禁中茶会の際に町人の身分では宮中に入れないため、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から居士号(こじごう)を授かりました。
それが定着したのが千利休という名前です。
千利休の設計した妙喜庵待庵の間取り
千利休が設計した妙喜庵待庵の間取りは、
- 2畳の「茶室」
- 1畳の「次の間」
- 1畳の「勝手の間」
- 「床(とこ)」
入隅を塗り込めた室床という作り
から成ります。
茶室へはにじり口という小さな(縦横60cm程度)入口から体をかがめて入るようになっています。
その理由は身分の違う人でも茶室の中では平等という考えから、武士でさえも頭を低くして入るようになっているんだとか。
かつてはにじり口の上に刀掛けがあったそうです。
刀を外して入ったんですね。
また、妙喜庵待庵の一番の特徴は窓です。
小さな窓は小窓(こま)と呼ばれ、内部に取り入れる光のコントロールをするために小さな窓を適所に配置していました。
妙喜庵待庵は現存する最古の草庵茶室と言われています。
建てられたのは桃山時代で、もともと千利休の住まいの敷地内にあったものを現在の位置に移築したものです。
現在、茶道をやっている人は自宅を建てる際にこだわってこの妙喜庵待庵を再現して作る方もいるそうですよ。
千利休の妙喜庵待庵の画像
妙喜庵待庵の画像を見てみましょう。
↓にじり口付近の外観
↓茶室と床
内部の壁はちょっと汚れた感じのすさの入った塗り壁で、敢えて華々しく色を付けたりしない仕上げとなっています。
床の框(かまち=茶室と「床」の段差部分の木)も節の入った木材を使用していて、シンプルな作りになっています。
時代的には、豪華な書院造りから質素な庶民住宅のイメージを取り入れた茶室建築が流行っていった頃ですよね。
千利休と関連のあるわびさび(詫び寂び)とは?
千利休と関連のある言葉としてわびさびがありますよね。
ところが千利休は直接的に「詫び(わび)」という言葉をあんまり使わなかったみたいですよ。
詫びは江戸時代頃からは機能美を表す言葉として認識されだしたようですが、それよりも前は単に粗末なさまを意味していたんだそうです。
千利休は派手な装飾を否定して、無駄を削ぎ落とした簡素なものを好んだことから、豪華な文化全盛の時代の人々からしたら単に粗末なものを使っていると思われたのかもしれませんね。
実際には利休の使用した道具は材料費をかけずに手間をかけたクオリティの高いものだったみたいですよ。
↓千利休が考案したとされる茶道具セット
それでいて決して値段が高いものではなかったと言われています。
では「さび」とは?
さびは「寂び」と書くそうですが、
千利休の時代の文献には載っていない言葉なんですよ。
主に俳句の世界で、古いものに感じる味わいを言い表す言葉として発達しました。
詫びと同じように、もともとはあんまり良い意味では使われていなかったそうです。
「経年劣化して汚くなる」から「時とともに自然と同化して味わい深くなっていく」といった感じに変化したのでしょう。
以上、今回は千利休の妙喜庵待庵を紹介しました。
- 千利休とは
- 妙喜庵待庵の間取り
- 妙喜庵待庵の画像
- わびさびの意味
一級建築士の試験では平成9年に「計画」の問題として出題されました。
太字の部分を中心に読んでいただければと思います。
関連としては
孤篷庵忘筌(こほうあんぼうせん 小堀遠州作の書院茶室)
や
如庵(じょあん 織田有楽斉作、京都から愛知県犬山市に移築)
があります。
合わせて勉強すると覚えやすいですよ。
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